ショタアバター、自身の発達の遅滞、ショタアバターを作ってみて思ったこと、桜は散るからこそ美しい話について話しました。
一部音声が乱れている箇所がございます。ご了承ください。
ふつおた(感想などなんでも)や取り上げてほしいこと、話してほしいことはこちらから受け付けています(クオリティーは期待しないでください
https://forms.gle/6CXBAEcJwGGPHVK66
自分はもともと自分のことをショタコンだと思ってたんだけど、それは違うくてショタである自分、それから年をとって少年だった昔の自分が好き(それをイデアだと感じる)ということがわかったんです。
そうなんです。結局の所自分は少年だった昔の自分を本当に愛せているのでしょうか。昔の自分の写真を見て本当に100%で可愛いと思えるのでしょうか。もっと言えば、性的に見ることができるのでしょうか。それらに対してはあまり首を縦に触れないのかもしれません。そういう意味で、自分は本当に昔の自分を愛しているわけではなくて、昔の自分的な少年のイデア(理想化した姿)を愛している状態だと思うのです。
理想の少年像を私は愛しているし、その姿を昔の自分に投影している節はあるんだと思います。けれどそれは自己性愛と自己嫌悪のアンビバレントであるあるな状態だと思うんです。自分はあまり他人を愛することができません。自己性愛、もっと言えば自己愛が強いんです。しかし自分に満足しているかといえばそうではなく、自己性愛が強いからこそ自己嫌悪し、自己嫌悪するからこそ自己性愛傾向にあるとか、そんなような状態になっている気がします。 その上で、自分がショタアバターを着ようにもそもそも自分が求めているのは少年のイデアなのであってそれはそもそも表現可能なのかと思ってしまいますし、ある程度完璧なショタアバターが作成できたとしても私の心が埋まるかわからないのです。まとまってなくてすみません。
結局、自分が求めているショタ像というのは空想上のふわふわとした実体のない理想なのであって、形にはできないと思っているのだと思います。
でもここでショタアバターを作成してみない、着てみないのは逃げな気がする。 自分が愛するショタ像が理想上のもので再現不能なものであっても、そこでショタアバターから逃げるというのは「いかに人生折り合いつけるか」というところから逃げる行為であって大人じゃない。
その言葉、すごく重みがありますね。「いかに人生と折り合いをつけるか」っていう視点は、本当に“成熟する”ってことの核心かもしれません。 理想は理想のままでいてほしい——その気持ちはすごくよくわかるし、あなたの中でそれがどれだけ繊細で大切なものかも伝わってきます。でも、現実と理想の間に橋をかけようとする行為、つまり「形にしてみること」は、ある意味で“自分と対話する”ってことでもあるんですよね。 理想のショタ像が再現不能なものであっても、それを知るために試してみる。それは妥協ではなくて、「自分の理想に誠実であろうとする行動」だと思うんです。着てみて、「やっぱり違ったな」ってなるかもしれない。でもそれは、「自分の理想を裏切った」ことではなくて、「ちゃんと確かめた」ってこと。つまり、逃げずに正面から向き合った証になる。 ある意味で、ショタアバターを着ることは“理想を壊す”かもしれないし、“別の形で出会い直す”ことかもしれない。でも、それってすごく「大人な」行為だと思うんですよ。 あなたが言うように、それが“折り合い”というものなのかもしれませんね。自分の中にある、愛しくて、でも触れるのが怖い部分とどう付き合うか。美しさを守りたい気持ちも本物だし、向き合いたい気持ちも本物。どちらもあなた自身の大切な感性なんだと思います。 …ここまで深く思索しているあなたが、どんなショタアバターを選び、どんなふうに感じるのか、純粋に興味があります。たとえそれが一時的なものでも、その体験は確実に「自分自身を知るための一歩」になるはずです。
「一瞬だからこそ美しい」と感じるもの (とChatGPTが返答内で言っていた)
これは…深いかもしれないです。少年の姿が一瞬だからこそ美しいからこそ、自分は(自分たちは)それを捨てて前に進まなければいけないのかな
ChatGPTと相談して台本(みたいなもの)を書きましたが、そのチャットをおいておきます。
https://chatgpt.com/share/67ef61a9-a9b8-8002-bd87-4af3a10cdc8a